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石の島コラム

海を渡った巨石の行方〔シリーズ・日本の礎を築いた北木石〕 〜あの巨石は今どこに?〜

石の島コラム
海を渡った巨石の行方〔シリーズ・日本の礎を築いた北木石〕 〜あの巨石は今どこに?〜
笠岡諸島の北木島から切り出された北木石は,船に乗せられ,海を通じて大阪,東京,北海道など,日本中に届けられた。

そこで疑問に思うのは,「古い時代,どうやって巨大な石を木造船で運んでいたのか?」ということだ。

この疑問に答えてくれる1枚の写真がある。



            北木島 巨石の船積み風景



昭和初期に撮影された,北木島の風景。

立方体の巨石が,連結した2艘の木造船の上に乗せられている。今,まさに乗せ終わったところだろうか。大勢の人たちが船の周辺に立っている。離れた所には,もの珍しそうに,それを見物する女性や子どもたちの姿も見える。


この石の積み込みについて,『石屋史の旅』に具体的な記述があったので,そのまま引用してみる。



「6~7百才用の船が2ハイくっついて並んでいて,その上に外材の米松がタテヨコに組んどる。2尺角ぐらいの太い松で長さは40尺ぐらいあった。つまり2ハイの船を一つのイカダのようにしたんじゃ。そうしておいて,船の中心に歩み板をかけた。歩み板もそりゃごつかった。

石と歩み板の間には,もちろんコロをかました。6尺ぐらいもある,家をひくようなコロやった。
そうして,いよいよ船に乗せるんじゃが,そのタイミングがまた難しかったらしい。

潮の干満で船にかけた歩み板の勾配が変わる。だから,はじめは下り勾配になる干潮をみはからって仕事をはじめたわけじゃ。
そして徐々に徐々にオーライをのばして石を動かしてゆき,潮が満ち始めて,歩み板と船が水平になりかけたころに船の上に乗せたんじゃ。その時を逸したら,船のほうが高くなって積めないわな。

まあ,このようにして2ハイの船をそのままボートでひいていったわけ。」




この石が,北木島から運ばれた最大の石材だと言われている。

まさに先人の知恵によって,海を越えて,遠くまで運ばれていった巨石。
さて,この巨石はどこへ行ったのか? そして今,どこにあるのだろうか?



実は,無事目的地まで運ばれた巨石は,整形され,多木製肥所(現在の多木化学株式会社)の創始者である多木久米次郎を讃える銅像の台座となっていた。(昭和11年=1936年)
銅像は戦時中の金属供出により失われたが,台座はそのまま石碑として残された。





この石碑は,兵庫県加古川市,別府川河口付近(多木浜洋館,加古川スポーツ交流館の隣)に今なお現存しており,多木久米次郎の偉大さを伝えている。





「肥料主」と刻むインパクト絶大なこの石碑は,「多木浜洋館記念碑」という名称で国の登録有形文化財(建造物)にもなっており,学校法人多木学園により大切に管理されている。
底面14尺(約4.2m),四方高18尺(約5.4m)の台石に刻む「肥料主」という文字は,時の内閣総理大臣,斎藤実の書によるという。

銅像は近隣の町村長らが発起人となり、各方面からの寄付を得て建てられた。実は台座の最初の文字は、「肥料王」と彫られていたのだが、「王」というのは当時の世情として穏当を欠くという意見が出たため、発起人の一人が久米次郎に相談せずに「肥料主」と改め、事後承諾の了解を求めたというエピソードが残っている。






このように,栄誉ある記念碑の石材として北木石が選ばれたということは,当時の北木島に,それだけの巨石を切り出し,輸送する力があったことを示している。

北木島の石材業は,まさに「海の道」によって支えられていたことが実感できる。



〔参考文献〕
  渡辺益国著『石屋史の旅』渡辺石彫事務所発行 1987年
  多木久米次郎伝記編纂会編『多木久米次郎』 1958年
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