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石の島コラム

北木島石材業のおこり〔シリーズ・日本の礎を築いた北木石〕

石の島コラム
北木島石材業のおこり〔シリーズ・日本の礎を築いた北木石〕
北木島の石材業は,いつごろ始まったのだろうか。


江戸時代はじめ,徳川幕府が大坂城を再建する際,瀬戸内海の他の島と同じように,北木島からも石垣石材が切り出されたと言われている。
また,幕末に西宮砲台(兵庫県西宮市)建設のため,神島外浦,白石島,北木島,真鍋島などから石材が提供された記録も残っている。

ただし,江戸時代に行われた採石は,特定の目的のために大名や幕府の命を受けて石を切り出したものであり,「北木島の人たちの生業(なりわい)であった」とまでは言えないのではないだろうか。

参考までに,明治9年(1876)に北木島村が作成した『村誌』を見ると,北木島の物産として「米,麦,雑穀,鯛,雑魚」が挙げられている。




                        明治9年(1876) 北木島『村誌』コピー



やはり石材業に関する記載はなく,石材業は当時まだ発展の途上にあったことをうかがわせる。
〔参考文献(1)に全文掲載〕



北木島において石材の採掘が本格的に行われ始めたのは,明治時代の中ごろと考えられる。
日本銀行本店(明治23年着工,明治29年完成)の建設に使われる石材を受注した事実からも,島で石材供給の体制が整ってきたことがうかがえる。


北木島の石材史を語る上で重要な史料がある。
明治28年(1895)「北木島村石丁場組合規約」である。




                        明治28年(1895)「北木島村石丁場組合規約」



この協定書の序文にはこのようなことが書かれている。
「岡山県小田郡北木島村に於て方今石材切出営業者の増加するに従ひ,安売競争に流れて価格を下落し,或は,粗製の弊に陥りて声誉を損し,ややもすれば,斯業の隆盛を妨ぐる事なしとせず,之を以て,今般同業者感ずる処あり。益本業前途の発達を期し相互の便利を図らんがため,一同集会協議の上組合を設置し,之れが規約を締結する事左の如し。」

こうして,明治28年12月27日に,石材業者30名により北木島村石丁場組合が結成された。

第一条では,北木島村において,「石材切出業に従事する者は必ず」組合に加入することになっているので,この時点での石材採掘業者は30名であったことが分かる。
なお,このときの組合結成の目的は,石材販売時の価格統制であったことから,この時点では「採掘業」と「販売業」が,明確に分離していなかったことが見てとれる。
〔参考文献(2)〕


いっぽうその後,明治36年(1903)に設立された北木島石材採掘組合は,石材採掘業の改良進歩,職工奨励等を目的とした組織であり,このころには採掘業者と販売業者が次第に分離してきたことがうかがえる。
このときの組合員数は約80名で,石材業の急速な発展が感じられる。



北木島大浦の諏訪神社に,北木島石材業のおこりを記した石碑が立っている。
この「大山祇命」の碑は,明治41年(1908)1月9日,畑中平之丞が発起人となって建立したものだ。




                        明治41年(1908)建立 大山祇命の碑


ここに碑文の一部をご紹介したい。

「往昔豊臣太閤の大阪城を築くや顆多の石材を本島に取りきと 惜哉爾来採掘の業微々として振はず殆んど廃絶に委したり 慶応の初年稍企画する所ありて再之か掘鑿を試みたりしも僅に一隻の小舟にて運搬するに過ぎざりき 爾後星霜を閲すること此に四十餘回今や斯業勃然として興り幾百の工人旦暮歌謡相呼び数十の商船晝夜櫓軋相□ふ 販路亦拡張して海外に及ぶに至り遂に我北木島の名を成さしめたり 嗚呼本島をしてかかる盛運を得しめしもの一に是れ大山祇命の恩」
〔参考文献(3)に全文掲載〕


この石碑は今もなお諏訪神社石鳥居の横に堂々と鎮座しており,北木島の石材業を見守っている。


なお,大山祇命(おおやまつみのみこと)は山の神で,丁場の守り神だ。
北木島の石材業者さんはこの神様をおまつりし,感謝の祈りをささげている。



〔参考文献〕 
(1)「皇国地誌」『笠岡市史』史料編上巻P469 笠岡市発行 1999年
(2)「採石・北木石」『笠岡市史』第三巻P658 笠岡市発行 1996年
(3)元気ユニオンin北木編集発行『北木を語る』P190 1996年
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